急行「たざわ」
 想い出の列車のMENU 利用上の注意

■ 想い出の列車 その3 急行「たざわ」

日本には四季がある。そして冬になると日本海側には雪が降る。今ではあまり使われなくなったが、かつては日本海側を裏日本と呼んだこともあった。

冬将軍が日本を襲うと、北西の風は奥羽山系に遮られ秋田県や山形県に大雪を降らせる。

そして乾いた風が山を越え太平洋側はカラカラの晴天となる。しかし、典型的な冬型の気圧配置が崩れる時がある。それは東海沖を低気圧が通るときである。今では南岸低気圧と呼び、これが通ると関東地方などに大雪を降らせることもある。2014年2月15日にはこの南岸低気圧の影響で関東一円は大雪となり、山梨県の甲府では114cmの積雪を記録し、山形市の過去の最高積雪の113cmを超えたことさえある。

こういった気圧配置になると、低気圧に向かって北東の風が吹き、東京や仙台を含めた太平洋岸に大雪を降らせるのである。そして、私が盛岡で大学受験を終えて帰ろうとしていたその日の天候もたぶんそのような日だったのだろう。

降りしきる雪の中を盛岡駅に着いたときに聞こえてきたアナウンスは、関東地方の大雪のため東北線の運行が非常に乱れているという内容だったと記憶している。時は昭和50年、もとより東北新幹線は開通していない。当時は上野〜仙台間を約4時間で特急「ひばり」が、上野〜盛岡間を約6時間で特急「やまびこ」が、上野〜青森間を特急「はつかり」が結んでいた。しかし、盛岡駅に着いた時には最終の特急は発車した後で、あとは仙台行きの急行が残っているのみであった。それが急行「たざわ」である。「たざわ」は仙台と秋田を結ぶ急行で、確か1日2往復運行されていたのではないかと思う。その2本目の上り「たざわ」仙台行きで下宿していた仙台まで帰る予定であった。しかし、その「たざわ」が上り列車の運行の乱れのため発車する見込みがたたない。

その時であった、向かい側のホームに仙台発秋田行きの「たざわ」が入ってきたのは。秋田方面へは正常に運行されるそうである。そこでひらめいた!下り「たざわ」で秋田方面に行こう。そして大曲で奥羽線の上りに乗り換えて実家のある山形に帰ろう。これは、その後大学在学時代に「歩く時刻表」とか「歩く交通公社(現:JTB)」と言われたほどの交通マニアゆえのひらめきだったのだろう。実際、受験時代には仮想の鉄道路線を開設し、ダイヤグラムを書いて息抜きをしていたものである。そしてその後、紙と鉛筆で作っていたダイヤグラムは、パソコン画面上の「A列車で行こう」や「シム・シティ」へと変化していくのだが、その時にはまだそのようなことはわからない。

話は戻るが、この選択は「ビンゴ」であった。乗り込んだ下り「たざわ」は、いつ出発するかもしれない乗客を乗せた上り「たざわ」を尻目に盛岡駅を発車した。列車は快調に田沢湖線を走り、無事大曲についた。駅で聞くと奥羽線はほぼ正常に運行しているそうである。もちろん、日中の特急の走る時間はとうに過ぎた時刻(たぶん8時頃)、山形方面にいくのは夜行の寝台特急と急行津軽しかない。その上り津軽が来るまで1時間くらいありそうだ。まずは腹ごしらえだ、ということで駅の一角の食堂に入った。レストランでは無く食堂、そういう名がふさわしいたたずまいだった。そこで食べたのは「親子丼」、間違いは無い「親子丼」と鮮明に覚えているのである。今までの生涯に食べた食事はゆうに6万回を越えているが、3日前の夕食の献立さえ覚えていない私にとって、30年前のこの夕食はまさに生涯における「イベント食」のうちの一つで一つだったのだろう。

そして、雪の中から急行「津軽」を引いた電気機関車(たぶんED75)のライトがまぶしく輝くのが見えてきたのは食後しばらくしてからことであった。「やった、定刻だ!」
太平洋岸には思わぬ大雪がもたらした混乱は、裏日本には影響を与えていないようである。もちろん、雪の降らない地方の人が見たらびっくりするほど、雪は深々と降っているのだが、この程度は裏日本では当たり前のことであり、この程度の雪でダイヤが乱れるほど柔ではないのだろう。私の乗り込んだ列車は横手、湯沢、十文字と停車し山形県境を越えて難読駅名として有名な「及位(のぞき)」駅を通過し、新庄駅に到着した。ここまで来れば、山形駅までは1時間そこそこである。おまけに、こころなしか雪は小降りになって来たようだ。新庄駅を発車した列車は午前0時前無事に、そしてほぼ定刻に山形駅に到着した。

こうして、私の盛岡からの6時間の列車の旅は終着駅を迎えたのである。そして、下り「津軽」は何度も利用したが、上りの「津軽」に乗ったのは、私の生涯でもこれが最初で最後であった。山形新幹線が平成11年12月4日に新庄駅まで延伸した今、山形を通る急行「津軽」は無く、そして秋田〜山形間を結ぶ特急も無い。奥羽線の秋田〜山形間は幹線から山形新幹線や秋田新幹線を補完するローカル路線へとその姿を変えた。

余談であるが、盛岡からの帰りに乗るはずだった上り「たざわ」のその後を書かないとこの物語は終結しない。定時に仙台に着きましたという結末では目も当てられない敗北である。しかし、「天気は我に味方した」ようだ。後に「たざわ」に乗った同郷の受験生に聞いた話だが、「たざわ」は「『順調』に遅れを重ね」、仙台に到着したのは翌日の明け方近くだったそうである。そして、山形駅までは順調に走った津軽も福島駅以降はその足を止められたと聞いた。そして無事に上野に着いたとの話は聞いていない。

* 昔の記憶を元に記述しているので時刻や詳細には誤りがあるかもしれません。

統計表示