普通列車「上野発秋田廻り青森行き」
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■ 想い出の列車 その2 普通列車「上野発秋田廻り青森行き」

「43.10」つまり「昭和43年10月」といえば、鉄道マニアは「あぁ、あれか」と思い当たることと思う。そうです「43.10」は「ヨン・サン・トウ」と読み、旧国鉄のダイヤの白紙大改正が行われた時なのです。それと同時に奥羽線も福島〜山形間約90kmが電化され山形〜上野間に電車特急「やまばと」が走り、それまで6時間かかっていた東京までの道のりが4時間半に短縮されたのである。

折しも、私は中学2年生。北海道への5泊6日の修学旅行への途上に乗ったのがその列車であった。その列車とは「上野発秋田廻り青森行きの鈍行列車」である。お断りしておくが、特急列車では無い、急行列車でも無い、ただの普通列車である。

上野〜山形間は約360km。前日の夜に上野をたったこの列車は、12時間かけて朝の9時過ぎに山形に到着する。ここから先は非電化区間であったのでEL(電気機関車)からDLディーゼル機関車(たしかDD51)に機関車を付け替える。山形駅の5番線に到着して機関車を付け替えるその光景を、何故か今も覚えている。

私たち修学旅行生を乗せた列車は山形を発ち、青森までの約390kmをひた走り、夜遅く青森駅に着く。何回も言うが、ただの普通列車である。

山形駅を発つとすぐ左手に霞城公園(山形城趾)を望み、左にカーブするとわずか1.9Kmを走り3分後には北山形駅に着く。そして北山形駅を発つと右にカーブし芋煮会で有名な馬見ヶ崎川の鉄橋を渡ると2.9Kmを走り羽前千歳駅につく。ここで線路は右手に仙台方面への仙山線を分岐し、稲刈りを終えた秋の山形路をひたすら北上して行くのである。

列車が天童、新庄、といった主要駅を経て秋田県境の「及位」駅に停車する頃には昼食時だったのだろうか。「及位」は難読駅として有名な駅で「のぞき」と読むのだが、それは余談として列車は県境を越え秋田県内の湯沢、横手、大曲を経て夕方には秋田駅に到着する。この頃には通路は帰宅の学生やサラリーマンで満員となった。青森駅についた時刻は記憶にない。しかし、列車を降りた後に午前0時過ぎの青函連絡船に乗るまで、青森駅前の旅館で休息したような記憶もあるので、10時前にはついていたのであろう。

とにもかくにも、これだけの長い距離を普通列車で移動したのはこれが最初で最後であった。いや、特急列車でさえ無いのである。この列車が当時国内で一番長い距離を走る鈍行列車として有名だったのは後に知った。その後、日本一の座は山陰線の鈍行列車(たしか下関〜豊岡)に譲ってひっそりと消えていったが、それと同時に鉄道は国鉄からJRへと民営化され、山形から首都圏への移動も特急「やまばと」から東北新幹線「やまびこ」へ、そして平成4年にはミニ新幹線の「つばさ」へと主役の座が移っていった。

5日後、北海道の旅を終えて未明に再び青函連絡船で青森駅に降り立った。これ又駅前の旅館で仮眠をとった後、5時頃の上野行きの特急はつかりに乗り込み仙台へ向かった。

あとは仙台から仙山線に乗り換えて山形に帰るだけである。しかし、事件はその時に起きたのである。それは私たちの乗る車両がないのである。用意されるはずの臨時列車が無かったのか、それとも増結されるはずの車両が無かったのかは記憶にない。

当時の仙山線はローカル線ながら全線電化されていた。それもそのはず、仙山線は日本の交流電化の発祥の地なのである。従って、列車の編成はELに引かれた4両の客車列車ではなかったかと記憶している。当時の車両の定員はたしか1両約80名。私たち修学旅行生の人数は約180名であるから、最低2両は増結しなければならない計算になるが、仙山線のキャパシティとして2両増結できることができたかは非常に疑問である。とすると、やはり用意されるべき臨時列車が用意されなかったのであろうか?しかし、そんなことがあるだろうか?今となっても全くの謎である。まぁ、ともかく定員320名の4両編成の列車に、大きな荷物を抱えた180名の修学旅行生が乗り込んだのである。たぶん、その光景は戦後の復員列車のごとき混雑ではなかったのか?ちょっと大げさか(^_^;)

かくして私たちの5泊6日の修学旅行は混乱の中で終わろうとしていたのであるが、今となっては学生時代の良い想い出である。

* 昔の記憶を元に記述しているので時刻や詳細には誤りがあるかもしれません。

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